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作左衛門 江戸見聞記 十一

江戸時代の商売 一
20060909121559.jpg江戸のメインストリート、本町通りです。
こんにちは、久しぶりの江戸ネタです。
前回まで、江戸で流通する金銭の種類やレート、物の値段などを書いてきました。では、そのお金を扱う商売はどんなものがあったのでしょう。
江戸時代にも、現代と変わらず多種多様な商いがありました。
間口三十間(1間=6尺=1.82m×30=54.6m……うううデカイ!今でいう百貨店ですね)の呉服屋から屋台の寿司や担い売りの魚屋までありとあらゆる商売があります。しかも、江戸は消費専門の大都市です。生産性のない武家が人口の大部分を占め、商人や大衆がなんらかの仕事を持ち、その商人・大衆のための商いもありました。もちろん規模は違いますが、この経済システムは現代の大都市とそんなに変わりません。
大会社のお偉いさん達や政治家・役人は生産性がなく消費だけです。・・・・・・事務能力、指導力があるかどうかも疑問です(笑) で、下々になれぱなるほど仕事に明け暮れ、貧乏暇なしという状況ですね。
江戸と現代の大きな違いは、物を売るほうと買うほう、つまり商人と顧客が人として信頼関係を結び取引をしていたことです。
殆どの支払いは年二回の盆暮れ勘定、つまり夏のお盆と年末の支払いです。半年に一回の支払いでした。なかには年末だけという支払い方法もあります。
これは、味噌、醤油、酒などの食料品から居酒屋の飲み代、呉服、薬、遊戯代などあらゆる商売がその対象です。もちろん利息がつく場合もあります。
年に二回(または一回)の勘定が出来るのはそれなりに安定した暮らしがあり、必ず支払えるという条件がつきます。
武家は殆どがそうでした。また商家、町名主、火消しの棟梁や大工の棟梁、坊さんなどその地に根を生やした人々が対象です。
棟割長屋に住んでいる八っつぁん、熊さんは、残念ながらその対象からは漏れる場合が多く、いつもニコニコ現金払いですね。
金がないので、逆に日払いしかできない場合がほとんどです。

さて、商売は大きく分けると呉服、薬、酒、米、両替などを商う大店、日用品、蕎麦屋や水茶屋などの食べ物屋、口入屋、大工、鳶、左官など通りに見世を構えての小店、その他は個人単位の小商いで屋台、担い売りや行商人、一部の職人などに分けることができます。他にヤクザが開帳している賭場や女郎屋(売春)、金貸しなど非合法な商売もあります。また、農業も立派な商売と言えるかもしれません。
この商売をしている人々が大量の金を、消費大都市の江戸で動かしていました。

20060909121547.jpg下谷広小路の呉服屋、松坂屋です。


士農工商
「士農工商」とはよく言われる身分制度の俗称ですね。「士」はご存知のように武士の士です。武士が江戸を支配していたのですから、格上の扱いを受けたのは事実でした。どんな貧乏な武士でも、大商人の家に行けば上座に座ることができます。また言葉使いは、武家であれば子供でも敬語で接しなければなりません。
次の「農」はお百姓さんですが、江戸において「工商」の町人より上というのはちと無理があるかもしれません。ただ武士の収入源である米の生産者であるがために奉られただけで、「工商」の町人による金銭流通都市の江戸では建前にすぎませんでした。「士農工商」という言葉自体は慶長八年(1603年)にイエズス会の宣教師が出版した「日葡辞書」という書物に記述がみられます。
江戸時代になり、武士は(お米をくれる)お百姓さんを大切にするぞというイメージアップを狙った言葉として、ある意味プロパガンダのように用いられたかもしれませんね。

江戸に住む武士には二通りありました。将軍家に直属の家臣団と、地方に領地を持ち江戸に藩邸を持つ諸大名の家臣団です。
将軍家直属の家臣団は知行地(江戸以外の地方にありました)が、一万石以上が譜代大名、一万石以下が直参、直参のうち将軍に謁見できるのが旗本、できないのが御家人と言われます。後者の、地方の諸大名は江戸の屋敷に妻子を居住させ(人質ですね)、殿様が一年おきに江戸と領地のある国とを行ったり来たりします。これが参勤交代。戻る度に江戸詰めの家臣を入れ替えます。江戸の藩邸では江戸家老が最高責任者、外交役が留守居役で両者とも江戸常駐です。いずれにしろ、膨大な人数の武士が江戸に寝起きし、金銭を使いまくっていました。

前記の通り、「農」は「士」に継ぐ身分とされていましたが、あくまでも建前です。八百八町の消費都市江戸といっても市街地は日本橋を中心に五キロ圏内に収まってしまいます。そこから先は純然たる農村地帯。池袋や渋谷、新宿などは見渡す限り畑でした。現在では想像もつきませんね(笑)。膨大な消費量となる野菜を遠方から持ってくることは不可能なので、江戸府内、近郊の農地は野菜の栽培がほとんどでした。稲作より楽だったといわれています。
また、米・野菜以外では仏教の影響で四足は食べませんでしたが、江戸前の海が魚介類を豊富に供給してくれました。隅田川河口近くの佃島は、漁業の育成をめざし、徳川家康が攝津から呼んだ魚師の町でした。
江戸に住む人々は無農薬の野菜と汚染なしの魚介類でヘルシーな食生活を謳歌してました(笑)

職人や大工、鍛冶屋などがモノを作る人たち「工」ですね。職人たちは「宵越しの銭は持たねえ」と言っても大丈夫なほど仕事には不自由しませんでした。消費が盛んなうえ、大火(江戸は火事が滅茶苦茶多かったです)のたびに一から出直すので仕事は増えます。
また、職人は大工の子は大工、左官屋の子は左官屋というのがきまりで、師弟制度による何年もの修行を積めば一人前になりました。
腕がよければ、食うのには困りません。職人には大きく分けて自宅で作業をする居職と仕事先に出向く出職があります。どちらも仕事はきつく、生活は貧しかったようです。貧乏暇なしの典型ですね。「大工を殺すにゃ刃物はいらぬ。雨の十日も降ればいい」とよく言われました。

身分制度上では労せず稼ぐから最下位に置かれた商人は、実際には江戸の社会を動かして江戸の文化と歴史を作っていきました。江戸末期になればなるほど、武士を圧倒していきます。目抜き通りで高級品を販売する大店、町内では小店が日用品や食料を売り、路地裏や橋の袂では行商人が小商い、盛り場では屋台や髪結床の見世が並びます。
商人あってこその江戸と言っても過言ではありません。
20060909121537.jpg左は通旅籠町の大丸屋(現東京大丸)と右が木綿問屋

士農工商に絡めて、消費天国の江戸で暮らす人々を簡単に説明してみました。
よく、風が吹けば桶屋が儲かるといわれるように、商売は江戸庶民たちの間で複雑に絡み合い、大儲けをしたり新たな文化が生まれたり、挫折したりと人生模様がいろいろです。
そして現代の東京へと見事に継承されているのかもしれませんね。
20060909121613.jpg 麹町にあった呉服屋、岩城枡屋です。

次回はいつになるかわかりませんが(笑)、具体的な商売いろいろです。
大店の代表とされる「呉服屋」から記述を進めたいと思います。

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