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作左衛門 江戸見聞記 十二

江戸時代の商売 二
「呉服屋」
呉服屋は江戸時代のドラマ、映画、小説には欠かせない存在ですね~。
日本橋近辺に集まるデパートの元祖が呉服屋さんでした。
江戸での呉服屋は、もともと京都、近江、伊勢にあった大店の江戸支店がほとんどでした。
江戸に幕府が開かれ、急速に発展する様を見聞していた京、近江、伊勢の商人達が見逃すはずはありません。
その中でも、もっとも利益幅の大きな呉服が大量に江戸へと運ばれてきます。

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尾張町の呉服屋、恵美須屋(えびすや)の店先です。
商品を購入すると「恵美須銭」と称して返金され
貯めると吉事があるといわれ大盛況でした。
現在のポイントバックのようなものですね。


当時(家康入府時)、江戸は関西の大都市に比べるとまだまだ新興の住宅地のようなもので、武士(サラリーマン)の家族がぞくぞくと移り住んでいるのに、見世(商店)の数は圧倒的に足りません。
で、幕府はまず大工や左官屋、鍛冶などの職人、また漁師や農夫などを地方から呼び寄せます。大工町とか鍛冶町とかありますよね。

江戸が街として機能し始めると、自然に食べ物屋や遊ぶ所が出現し、江戸で商売すると儲かると喧伝されるようになります。
「よし、江戸に出て一旗揚げてやるべ~」となりました。
この現象は現代にも継承されているかもしれませんね。
地方の方が「私、東京に行って働きた~~い!」というのに似ています。
当然、上記のように利に聡い京、近江、伊勢の大店も江戸店を出店させました。

近江屋・京屋・伊勢屋
本来、「呉服屋」とは絹物しか扱いません。
木綿や麻などを扱う見世は絹より糸が太いということで「太物屋」といいます。
「呉服屋」、「太物屋」と分けて扱っていましたが、商人達は「江戸ではなんでも売れまんがな~!」ということになり、大々的にいろいろな物を扱うようになりました。
近江系は呉服、木綿、生糸、畳、蚊帳(かや)、筵(むしろ)など近江近郊が生産地のものを、京都系が呉服、生糸、木綿、真綿、小間物、また人形、金工、漆工などの伝統手工業を多彩に仕入れました。
日本橋大伝馬町一丁目は、木綿の生産地で有名だった伊勢の店が軒を並べました。木綿の他にも紙などを扱っています。
時代劇では、大店としてよく「伊勢屋」が登場しますね。商魂逞しい伊勢の商人は、地元の本店が木綿を買い集め、そのまま布として、または加工して江戸へせっせと送り、江戸店が手広く販売して、関東・東北までその商圏を拡大していきました。
伊勢店の評判が高まり、「伊勢屋」という屋号が信頼と安心を人に与えます。
で、「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われるぐらい江戸でもっとも多い屋号となりました。
ま、逆に言えば「伊勢屋」という名をつければ見世として成功の確率が高かったようです(笑)
現在のように商標登録というものはありませんから、うるさいことは言われずに誰でも……例えば豆腐屋でも、古着屋でも「伊勢屋」は名乗ることができまする。
※しかしながら屋号における争いは、皆無ではありません。
 小店同士では少なからず、どっちが先に店名を名乗ったかという
 訴訟は起こっています。

越後屋
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駿河町の越後屋です。
道の両側が店先。道の先に富士が見えたので
駿河町といわれました。

20061015163850.jpg 呉服屋としては「越後屋」が有名ですね。現在の「三越」です。……これも「伊勢屋」と同じで三井グループとは関係のない商人も「越後屋」を名乗っているパターンが沢山ありました。「越後屋、おぬしも悪よの~~」ぐらい有名ですね(笑)
で、本物の「越後屋」の歴史をちょびっと。
伊勢松坂出身の三井高利(みついたかとし)という人が江戸で呉服店(松坂屋?)を商っていた兄のところへ奉公に行きました。しかし、兄は成長する高利の抜群の商才を妬んで、高利二十八歳の頃におん出しちゃいます。高利は郷里に帰り金融業を営みます。この間に十男五女(妾腹も含めて)をもうけ、再び江戸進出を虎視眈々と狙っていました。
廷宝元年(1673)に兄の俊次が亡くなり、高利はただちに京都と江戸に呉服屋をオープンさせ「越後屋」と名づけました。そして見世自体は息子達に任せ、自分は伊勢松坂で指揮を執ります。
天和三年(1683)に江戸店を駿河町、現在の三越日本橋店の場所に移転し、両替商の看板も掲げます。
このころに「現金安値掛け値なし」という商法を完成させます。
それまでは、荷受問屋(流通問屋)を通して商品を仕入れ、掛売りで盆暮れに集金し、価格も購入時にその都度交渉して決めるというものでした。ほとんどの「呉服屋」がこの販売方法でしたが、高利は一挙に改めます。まずは荷受問屋を通さず織元から直接仕入れ、安価な値札を商品に付け、現金販売としました。そして、一反売りから客の求めに応じて少しの生地でも価格をつけて販売するようになりました。呉服屋の量り売りですね。この販売方法は流通革命と言われるほど評判を呼び大成功です。現在の流通販売の礎と言えるかもしれませんね。そして、商いの本場、大阪にも見世を構えます。
高利は、元禄二年に江戸の本両替仲間に加入し、二年後に金銀御為替御用達になります。幕府の御墨付きですね。一代で江戸、京都、大阪の三都に呉服と金融を扱う同族企業を組織しました。しかし、幕末になってくると不景気になり、呉服、金融ともに「越後屋」の危機が訪れます。高利は、見世をたたんで伊勢松坂に引っ込もうという意見に耳を貸さずに、幕府・朝廷・薩長、と幕末を賑わしていた権力機構の情報収集に努めました。で、官軍(薩長)に多額の軍資金を提供する決断をしました。
先見の明もあったのですね~。実際、この頃は幕府が負けるとは誰も思ってません。で、結果は官軍の勝ち~~。高利は論功行賞で、再び新明治政府から為替方を拝命し、政府の財政と深く関わって、財閥として発展することになります。
明治五年に呉服部門を三井グループから切り離して「三越呉服店」として独立させます。三井の越後屋です。よく言われるように、江戸に来たときに山を三つ越えて来たからではありません(笑)。
現三越百貨店は今も揺るがない基礎があり発展を続けています。武蔵村山にも出店しますね~。メデタシ、メデタシと(^^)
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越後屋の内部の上がり框です。
奉公人が忙しそうに働いています。



お買い物
江戸時代を通して、呉服屋さんで物を買うということは、お客にとってはある種のスティタスとなっていました。
例えば、薬種問屋のお嬢様が呉服屋さんに帯を買い物に行くとします。
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典型的なお嬢様。
菊見の会を催して
はしゃいでるようですな~(^^)



すると、そのお嬢様専門の手代が現れて文様見本帳やら生地見本を提示します。いわゆるカタログですね。見ている間には、茶菓が出されて、横でお香が焚かれちゃったりします。
「下へも置かぬもてなし」(サービス)ですね。お嬢様に付いて来た、お付の人は、専門の待つ場所があって、煙草や茶菓、ときによってはお酒などのサービスがあります。
お嬢様は一刻以上(約2時間)、あ~でもない、こ~でもないといいながら、帯の生地、柄、またそれに合う小物、紐、はたまた和服自体を選んだりと、のんびりショッピングを楽しみます。「お腹が空いた~」と言えば、もちろん食事も出てきます。
で、お嬢さんは「これとこれとあれ~~」とお気に入りをいくつか決めて、一旦自宅に帰ります。
するとその当日か遅くとも翌日にお嬢様付きの専門手代が何人かの丁稚(でっち)に、お嬢様が選んだ反物などを持たせて、薬問屋にやってきます。お嬢様の部屋でまたまた、あ~でもない、こ~でもないと、今度はお嬢様の母親も交えて始まりまする。
お嬢様にとって、買い物は一大イベントでありまする~(笑)。なんとも優雅なショッピングですな。これがお金持ちの一般的な買い物風景です。

20061015163901.jpg


着物の小紋見本帳です。
遠くで見ると無地に見える細かい小紋が粋とされ、意匠を凝らした模様が沢山ありました。


お武家では、見世に足を運ぶことすらしない場合が多いでござります。家の用人を呉服屋へ行かせ、「当家の姫が、流行の柄を所望いたしておる。よしなに……」と言わせまする。
すると呉服屋は反物など大八車にうんじゃり積んで、お屋敷に来ます。で、お姫様が一日をかけて、あ~じゃれこ~じゃれと選びまする。
庶民である熊さん、八っつぁんの愛しいおかみさん達は、めったに呉服屋なんかには行けません。
年がら年中、古着で通します。また、古着を仕立て直して普段着にしてました。

現在は、着物というと正月、成人式、結婚式、葬式などの節目に着る場合がほとんどですね。だからなんとなく、堅苦しいというイメージだけが先行して、普段から袖を通す人はあまり見かけません。銀座のママさん達は普段から着てるようですが(^^)
当然のことながら江戸時代ではすべてが和装です。
実際に洋服よりも着やすいといわれてました。ラフな感じで帯もゆるめていればかなりの自由が利きますし、機能的でもありました。
女性も男性も普段から、日本の伝統ある着物を活用してほしいものです。

出世階段
一方、呉服屋さんの内側はというと、これは男所帯で大変なサバイバルレースでした。
よくテレビや小説では、広い台所で働く若い炊事係りの女性の奉公人と手代との許されないラブストーリーが展開したりしますが、それは絶対にあり得ません。
なぜなら、江戸の大店である呉服屋はほとんどが上方(関西)からの出見世、いわゆる江戸支店です。
その江戸支店で働く全ての人は上方で入社テスト、面接を受けてパスすると江戸に送られてきます。しかも男性のみです。
丁稚と言われる11歳ぐらいの男の子、仮に勘治が、本店のある上方で採用され何人かの同期とともに江戸に下ってきます。見世では掃除、洗濯、炊事などの下働きが五年間続きます。しかもこの間は無給。
勘治は上方では頭は良かったのですが、貧乏でした。だから、無給でも衣食住が十分に支給される生活は満たされていると思っています。一ヶ月にたった一回しかない休みも、持ったこともない小遣いを渡されるので幸せです。
勘治は五年間無事に勤め上げて江戸店で元服します。名前も勘太郎に改め、晴れて「若い衆」となります。それからまた四年間、新しく入ってくる丁稚の世話や行儀作法に磨きをかけ、江戸店に入って九年目に勘太郎は始めて里帰り(初登り)です。
ここまでくると勘太郎の親にも見世から金一封がでます。
関西弁は消え、洗練された勘太郎は久しぶりの両親に暖かく向かえられ、懐かしく楽しい時を約一ヶ月間過ごします。また、江戸に帰ると「手代」というポストが待っているので、勘太郎は自信が漲っています。ここまで来るまでには、何人もの同期の同僚が辞めていきました。
勘太郎は手代になっても奢ることなく無給で働きます。成績も良く、客からの受けもいいので、出世の階段を着実に登って行きました。
「小頭」「年寄」などのポストを歴任し35歳で「番頭補佐」になります。ここまで来るまでに上司からは殴られながら仕込まれました。思った以上に「体育会系」です。
いまの上司の大番頭や総支配役は50歳前後ですが、まだ妻帯していず帳簿をめくりながら相変わらず口うるさい人達でした。さらに勘太郎は五年間働き、40歳でやっと大番頭になります。
感慨深いものがこみ上げてきます。
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木綿問屋丹波屋の帳簿。
大番頭が作る帳簿です。
商人社会の帳簿作成能力をうかがわせる、
圧倒的なボリュームです。




勘太郎は長屋からの通いの身になり、もちろん恋愛のひとつやふたつは経験しましたが、まだ一人身です。
上方の本店と江戸店の間を行ったり来たりしている間に、本店は代替わりしていて、新しい主から縁談の話しも舞い込んできています。
勘太郎はその縁談を受けて、江戸で質素な祝言を挙げ、さらに五年間、江戸店で働きました。主に部下の指導と外商です。
そして、ついに「総支配役」となり、江戸店を任されるようになりました。住まいは江戸店の奥に移り、何千両という金を動かす身分になれたのです。めでたしめでたしと……。

勘太郎のように、このサバイバルレースに勝ち残る人は2~300人のうち一人か二人です。この江戸支店の責任者になるという「番頭コース」の他に、「独立コース」という出世階段がありました。「独立コース」はいわゆる暖簾分けですね。番頭になるときに、見世が全て金を出してやり、マーケティングリサーチを念入りにした場所へ出店し、そこの責任者にならないか?というコースです。フランチャイズ店と言ってもいいかもしれません。
呉服屋も武家社会以上に凄まじいサバイバルゲームの舞台でした。


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プロシア公使が来日し、日本・プロシア修交通商条約を
締結したオイレンブルグが書いた「東アジア遠征記」に
掲載されたイラストです。万延元年(1860)。
日本橋に続くメインストリートと言われておりまする。

次回は呉服屋の基本商品である和服についてちょぴっと(笑)、
記述してみましょう。

最後まで、読んでいただきありがとうございます。


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